平安後期に、上総・下総(現在の千葉県)を治めていた上総介広常は、坂東八平氏の一人。当時、東国最⼤の勢⼒で、鎌倉幕府成立の際、源頼朝挙兵の成功に、⼤いに貢献したと⾔われています。
しかし、その⼤きな勢⼒を恐れた源頼朝は、広常が謀反を企てたとして梶原景時に暗殺させます。上総氏一族は、所領も没収されてしまいます。その後、頼朝の大願成就を祈願して、広常が一宮の玉前神社に鎧を奉納していたことがわかり、謀反の疑いは晴れますが、所領は千葉⽒や三浦⽒に分配されてしまいました。
睦沢町岩井で開催された、米づくりワークショップ10周年イベント「はじめての演劇祭」では、地元岩井地区の伝説を紹介する紙芝居を中心に、祭唄の木遣り、睦沢町寺崎地区の伝統の勝見和太鼓、東京から参加の中島さんによるコラボレーションが実現しました。
上総広常が暗殺される「高藤山物語」と、頼朝の大願成就の鎧を奉納した玉前神社の祖神が祀られている「鵜羽神社」の物語を動画でお楽しみください。
はじめての演劇祭
米づくりワークショップ10周年記念イベント
イベント4 はじめての演劇祭
2018年9月16日(日)千葉県睦沢町岩井にて開催
主催 トランローグ有限会社
後援 睦沢町 睦沢町教育委員会 社会福祉法人 睦沢町社会福祉協議会
photo: 古山直樹さん(睦沢町役場) 杉田以成さん Shizue INOUE + Tranlogue Associates
movie: 杉田以成さん Shizue INOUE + Tranlogue Associates
text: Motohiro SUGITA + Tranlogue Associates
高藤城物語
文: 村杉正洋さん(睦沢町在住)
絵: 安藤緑さん(睦沢町在住)
語り:村杉廣子さん(睦沢町在住)
宮崎叔子さん(睦沢町在住)
パフォーマンス:
中島真央さん(東京都在住)
勝見和太鼓:
SHU〔松﨑宗さん〕(睦沢町出身千葉市在住)
村杉廣子さん
左から村杉昭秀さん、吉野正記さん、市原一良さん
木遣り
初めに地元岩井地区にお住まいで、地元鵜羽神社の祭りの若頭として、祭りの唄である木遣りの保存に取り組む吉野正記さんと、氏子の村杉昭秀さん、市原一良さんに神社の祭唄である木遣りを唄っていただきました。
演劇祭の舞台は、市原さんから敷地をお借りして、村杉正洋さん、廣子さんご夫妻に耕運していただき、芝を貼りました。
勝見和太鼓:SHU(松﨑宗さん)睦沢町出身、千葉市在住。5 歳で和太鼓と出会い、睦沢町を拠点に活動している「勝見和太鼓」に所属。9歳で全国的に活動中の「和太鼓奏者TAKERU氏」に出会い本格的に和太鼓活動を開始。10 歳から茂原市で活動している丸貴大(まるたかひろ)率いる「昇鼓團(しょうこだん)」に所属。15 歳からいすみ市で活動している「和太鼓凪(わだいこなぎ)」に所属。和太鼓凪は2010 年度から日本太鼓ジュニアコンクール千葉県大会では7 年連続、最優秀賞を受賞。自身が所属してからは3 年連続最優秀賞に貢献。2017 年度の全国大会では、台湾太鼓協会賞を受賞。現在は勝見和太鼓の指導者、昇鼓團のメンバーとして活動中。普段の演奏曲は和太鼓奏者TAKERU氏と丸貴大氏が作曲した曲を本人指導の元、演奏を行っている。
SHU(松﨑宗さん)
中島真央さん
上総広常は、寿永2年(1183年)12月22日、源頼朝の命令で梶原景時に暗殺される
高藤山城から九十九里浜を望む上総広常
海が望める平安後期の⼭城_⾼藤⼭城趾
上総広常の城と伝えられる高藤城の城跡は、睦沢町と一宮町の町境で、「はじめての演劇祭」の開催地、岩井ファームから1kmほど北東にあります。
⼭城の南⻄にある妙勝寺(睦沢町岩井)が、城への正⾨だと⾔われています。写真(下)中央に映るのが妙勝寺で、⼭の尾根づたいに城趾が残っています。岩井側から⾒ると、連なる⼭がちょうど城壁のようにこの地区を囲っています。この尾根づたいが、睦沢町と⼀宮町の町境にあたり、現在は、⼀宮町側から細い⼭道が整備されていて、登ることができます。
岩井地区から見た高藤山
この日は、妙勝寺の山門から高藤山城趾へ、登ってみる。
妙勝寺山門、天保13年(1842年)建立、平成29年に修復
尾根伝いに登る
高藤山古蹟碑(要約)
加納候の領地の上総長柄郡一宮本郷村にある高藤山は、上総権介平広常の居城跡と伝えられている。
高さ三十余丈、広さ二千五六百坪、山頂に本丸・櫓馬場の遺礎があり、山下には刀工隊谷・箭谷・立旗板などの名が残っている。西側はややゆるやかな斜面であるが、他の三法は険しくて登ることが容易でない。山脈は東に走り、一理ほど先に本郷山があってその東は九十九里の山である。山の北東をめぐって一宮川が流れ、本丸西南の妙勝寺(睦沢町)は城の正門跡、隼人谷は広常の老臣の宅地、粕谷古堰の小板橋は城壕の跡という。高藤山は本丸で本郷山は外郭と考えられている。
広常は、頼朝の挙兵に応じて治承四年(1180年)二万余人を率いて従軍し多くの戦功を挙げたが、寿永二年(1183年)讒言によって誅殺され、縁者の所領は没収された。
その後、広常が上総一宮玉前神社に頼朝の武運を祈願して甲を奉納していたことが判明したので、頼朝はその冤死を悼んで縁者の罪を許して所領を旧に復した。大谷木(睦沢町)の安養寺の過去帳に諡名が記されている。
加納久徴候は城址が変容し忘れられてゆくのを恐れ、碑を建てて見示するとにした。(一宮町教育委員会)
※加納久徴は、江戸時代後期の上総一宮藩の藩主
標⾼約90メートル程で、⼭の地形を⽣かしたと思われる⼟塁趾と⽯碑が残され、桜が植えられています。お天気が良ければ、遠くに海を⾒ることができます。昔の⼈もここから町の様⼦を伺っていたのでしょうか。
古地図、富士見十三州輿地全圖(江戸後期)、房総半島に上総国が示されている。
1200年の歴史に触れる鵜羽神社
鵜羽神様と榊の伝説 鵜羽神社
文・絵:繁田幸恵さん(東金市在住)
語り:村杉廣子さん(睦沢町在住)宮崎叔子さん(睦沢町在住)
パフォーマンス:
中島真央さん(東京都在住)
勝見和太鼓:
SHU〔松﨑宗さん〕(睦沢町出身千葉市在住)
鵜羽神社は、はじめての演劇祭の開催地、岩井ファームから1kmほど北にあり、1200年の歴史を誇る由緒ある神社です。
町指定の無形民俗文化財で1200年以上続く、鵜羽神社(睦沢町岩井)の「十日祭(とおかまち)」。このお祭りは、はだか祭りとして有名な「千葉県無形民俗文化財・上総十二社祭り」の重要なお祭りの1つです。
鵜羽神社には、稲穂の神、穀物の神として信仰される鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が、父の彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト/山幸彦)と、母の豊玉姫命(トヨタマビメノミコト/海神の娘で玉依姫の姉)が祭神として祀られています。
睦沢村史によると「古くは鵜羽山大明神と称した。『鵜羽大明神縁起』に、上総国一之庄祝郷は日本武尊の東征のみぎりにこの地を過り、諸軍は湧水で渇をしのいだ。その以後岩井と改め、帝御即位の時、高殿の御湯引の清水をこの地から奉ったと言う。大同元年(806)豊田庄の海辺で一顆の玉を得て漁屋に納めて尊崇する者があり、土人は玉依姫の神霊として右大臣百川に上申した。そのころ平城帝の御夢に釣ヶ岬の天孫降臨の故地に神霊を鎮め奉るようにとの御神託があったので、帝は上総介に命じて八神六社を祀らせた。神霊二座をまつって玉崎の社と名付け、別に岩井の郷にも二座を鎮め奉って鵜羽山と呼び、他に南宮・二之宮・三之宮・玉垣の四社を玉前六社とした。」と伝えられています。
また「祭礼の起源は、あるいは大同元年(806)または嘉祥三年(850)8月8日」とされ、この日は鵜茅葺不合命の御降誕の日に当ります。この8月8日が、現在9月8日に行われている「御漱(おみすり)祭」です。
上総広常が源頼朝の東国平定を願って甲を奉納した玉前神社
玉前神社では、毎年3月21日春分の日に「上総権介朝臣広常公 慰霊祭」を行っています。
詳細は、上総一宮玉前神社ホームページ
https://tamasaki.org/photo/gyouji02.htm#a02
上総十二社祭り
富士見十三州輿地全圖 安房・上総・下総三国図(江戸後期)
「上総」の名称の由来
807年に編纂された『古語拾遺』によると、よき麻の生きたる土地というところより称したとされる捄国(ふさのくに)から分立したという。分立の時期については、『帝王編年記』では上総国の成立を安閑天皇元年(534年)としており、毛野国から分かれた上野国と同じく「上」を冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説もある。
6世紀から7世紀にかけ多くの国造が置かれ、後の安房国も併せ8つの国造の領域が存在しているが、ヤマト王権からはこれらの国造の領域を合わせ捄国(もしくは上捄国)として把握されていたものと考えられ、ヤマト王権と緊密なつながりを有していたともされている。藤原京出土木簡に「己亥年(699年)十月上捄国阿波評松里□」とあり、7世紀末には「上捄」の表記であったと推測されるが、大宝4年(704年)の諸国印鋳造時には「上総」に改められた。読みは、古くは「かみつふさ」であったが、「かづさ」に訛化した。「かみつふさ」の転であり、正仮名遣(歴史的仮名遣い)では「かづさ」と表記されるが、現代仮名遣いでは「かずさ」とするため、「つ」に由来することが見えない状況となっている。(出典:Wikipedia)
「岩井」「寺崎」の地名が記されています。